第三話:魔人

 

四月一六日、一〇時五四分。

 

 中流階級然とした畳の居間に、壁に掛けた時計の刻む音響だけが満たされていた。

 テーブルの上座に頬杖する不良青年と、フランス人形じみた少女が座布団に座り、対面のテーブルの端で俯いたままの美殊がいた。

 巳堂霊児とマージョリーが、真神家の居間で深刻な顔をしている。

それは四時間前に巳堂とマジョ子は美殊の連絡で、助けて欲しいと連絡を受け取った。

内容の細かさを省いたことと、悲鳴のように慌てていた様子で二人は、只ならぬ事態と判断した。二人はその場所へ飛ぶように急いで向かう。場所は黄紋町の住宅街で彼女の家。

そして、出迎えたものは二人が久しく忘れていた驚愕だった。〈聖堂〉の騎士にし、女教皇の聖剣。最年少の〈連盟〉が誇る〈戦闘の賢者〉という二人を愕然とさせた。

 今は二階で眠りこけている真神誠の姿を思い出しながら、マジョ子は沈黙を破るため口を開く。その目は終始、憤りに揺れていた。

事件の手掛かりになる材料でもなく、ただの雑用として呼ばれたことにプライドが傷付いている。故に、魔女の言葉は煮え滾る地獄の釜。

 

「どう思いますか? 部長?」

 

 死刑囚のように俯いたまま動かなくなる美殊を見窺い、巳堂は言葉を懸命に選び取る。これで何度目だろうと思い、頭を掻きつつ溜息を吐いてリピートする。

 

「どうって――――家に着いた後、獣化現象が解けた兄貴を運ぶ手が欲しかっただけだろう?」

 

「それで普通、部活の先輩をパシリに使う後輩がいますか? たかが、素っ裸の兄貴を運ぶだけで? たかがフ」と、言おうとしたマジョ子に巳堂は手で遮った。少々遅過ぎた気もするが、そこは考えない。

 

「ストップ。またミコっちゃんをぶっ倒す気か? もう、この話題は禁止。それよりも詳しい話を訊こうぜ? さっきから、話が進んでいない」

 

 四時間前にマジョ子は、放送禁止用語六連発を言い放った。カウボーイの連続早撃ちの如く、蜂の巣になった美殊はそのまま軽く卒倒した。

自然と誠だけでなく美殊の看病まですることになってしまったのを、マジョ子は勝手に怒っているのが現状だ。仕方が無いと言えば、仕方が無いと巳堂は思うが、結局は口には出さない。蒸し返すのを避けるプランを選んだ。

 可愛らしい声色と顔で、バンバンと卑猥な単語の連射である。ショックを受けても不思議ではない。美殊のように、マジョ子と付き合いがあるとはいえ、四時間前の卑猥な言葉はさすがの巳堂もゲップが出た。

 

「解りました。でも、どう思います。あのガキ? 一年以上も同じ学校に居やがったあのバケモンを?」

 

 誠の獣化現象を差し、今抱えている事件の関連性。そして、一年間も魔術関係者と気付かなかった自分自身に、怒りを含めて言った。

しかし、巳堂は肩を竦めるだけである。気付かなかったのは仕方がないと、もう気分を変えていた。

 

「どうって、違うと思うし、封印されてたんだからしゃーあないだろう。オレはそう思う事にした。魔術関連で、魔人の家に勝てるとは思っていないしな」

 

 のん気な返答だったが、今抱える事件との関連性は皆無と断言し、彼女の居る世界の常識的解答だった。マジョ子は溜息を吐いて指を組む。学者の鋭利な視線を見せて、巳堂に向ける。たしかに言いたいことの大半を言ってくれた。しかし、魔術師として言いたいことは、まだまだあった。

 

「アタシもそう思います。はっきり言って・・・・・・・・・出鱈目ですよ! あのガキは? 「魔術障害」になっているんですよ? あの魔術は封印結界です。精神の抑制が強固に施されています。辛うじて、風景や世界を第六感で感じ視えるだけですよ? これだけの封印を施されて生きているだけでも驚きです。残留思念の免疫も無く、今まで悪霊に憑かれて死ぬ事も無く育ったのが奇跡です。そして、この魔術を行った魔術師を褒めるような、認めるような言葉しか出ないことが悔しいですが、実力も知識も稀代で、後にも先にも現れないでしょう。しかし、この上なくイカれてやがる。生まれた事を否定しているんですよ? はっきり言って、ムカついています! 魔術師の殆どは、アタシも含めて常識に牙を立て、唾を吐く外道とも言えるでしょう。でも、これは外道以下です! 解放とか飛躍に進めるでもなく、ただ束縛と呪縛の「停止」を強制しているんです! 「成長するな」って言っているようなものです!」

 

 最後の方は盛大に吐き捨てた。可愛らしい面を怒りだけに染めて。

超越を目指す魔術師として、ある意味解放と飛躍が命題である。そして誠の封印を目にして少なからず、魔術師としてよりも人として軽蔑した。

これでは、生きている意味が無い上に、彼自身が封印後、一度も感動したことが無いという事実。感動は魂、精神、肉体の経験である。積み重ねた年月を受け入れ、愛しく恋しいと思い、求めて受け入れることだ。

感動という波紋に三位一体が震えることで人は、良くも悪くも何かを生み出し続けた。それを、その最低限の権利すら踏み躙るような封印に、マジョ子の奥歯が歯軋りする。

 

「マジョ子さん。何も解らないあなたが、養母――――京香さんの批判をするのは止めてください」

 

ようやっと顔を上げて、冷たい眼差しの美殊にマジョ子は眉を上げる。紅顔は消え去り、声音は零度を保っていた。師の行った事に対しての、絶対的な信頼を乗せる後輩に、爛々とする碧眼は喧嘩を買ったことを明確に伝えた。

高度な哲学論からなる舌戦に移る雰囲気を察し、巳堂はそ知らぬ顔で湯呑みにお茶を注いで一服することにした。止めても無駄だし、止めて止まる愛嬌は二人には無い。

 

「お前な? 自分の兄貴に掛けられた魔術を判っていて言っているのか? これでもか、ってくらいに六つの結界を掛けられたものだぞ? あれはもう、出口の無い牢獄だ。人間の身体を小宇宙として捉える、神秘主義系統を研究している魔術師が、アイツを見ればどういう反応を示すと思う? お前の兄貴は、魂が封じられていたんだぞ。幾兆と磨き抜かれ輝く魂は、人にとっての太陽だ。幾億と進化の果てに完成した肉体は、その太陽の光を浴びる月。そして、精神はその太陽と月の光を浴びて成長をする生物や星といっていい。でも、お前の兄貴には太陽は昇っていない。ここまでで、何か反論があるか?」

 

「ありません。ですが、訂正をお願いします。正確には七つです。いえ、七つだったものが、六つになっただけです」

 

 煎餅に手を伸ばし始めていた巳堂は、美殊の言葉に眉を寄せる。マジョ子だけは疑問符を作ってなんと言ったかと、吟味し――――数瞬後にさらなる怒りの火が付いた。声音は嵐の前の静けさを思わせるほど冷静に紡ぐ。

 

「七つ目は何を封印していたんだ? 感情抑制か? 答えろや?」

 

 もう仁侠映画かギャングスターのような口調のマジョ子に、美殊は冷静な態度を保ち、淡々とした声音で答える。

 

「誠自身の「大源」です。ですから、この七つの封印の最大とした意図は大源を封じることでした。肉体の強制的な稼働率の不具合、精神は喜怒哀楽で「喜怒」の鈍感さはそこから派生した効果でした。ただ魂の行動理念を封じただけ。「大源」の流れをダムのようにせき止めただけです」

 

 言われた意味を理解できなかったのか、マジョ子は一瞬にして言葉を失った。そのまま、どれだけ重たい沈黙が流れたのか、気付けば壁時計はボーンと、一一回鳴った。

巳堂も聞いたことがある「大源」という単語に対して、困ったように苦笑した。

魂の名前。もしくは、生物が持つ大元。例えると、肉体は種族という名があり、精神は生まれた時に与えられた名があり、魂にも名がある。

ただし、魂の場合はもっと原始的な行動を一貫性とするため、象徴的意味合いがある。

 

「肉体的な第六感の封印だけでは足りなかったために、わざわざアフリカ大陸まで行き、原住民族の方々の協力による、古代語の流れを組む魔術式で封じましたが、最長老の五年が限度という予言通りでした。何よりも、誠の「精神」は束縛や呪縛に対して、相性が悪過ぎた理由もあります」

 

 悪魔でも、ここまで淡々と言えまいと思えるほど、美殊は答える。

巳堂は理解の色を浮かべて一つ頷いた。

 

「なるほど。大源にある「悪魔」を封印するため、「大源」を封印したのかよ、京香さんは? はぁ〜。なら、一年以上もオレとマジョ子が気付かないのも納得だ」

 

「はい。「解放の精神」、「暴力の気」、「憤怒の魂」が、誠を表しています。その性もあって、封印を七回に分けて施術しました。七回にしなければ危険な「気」と「魔力」を抑圧できないですから」

 

 この手の理論は、実は美殊にとって初めてではない。

五年前に師である京香に教えられたことである。しかも、逆の立場で食いかかるように詰問したのだ。だから、正直に答える。別段、真神家の魔術に隠蔽も隠匿も無い。魑魅魍魎を狩るのに秘技も奥技もない。必要なのは切れる刃だけだ。

 

「今までのは、全て京香さんの受け売りですから。それに京香さん自身も研究した結果ではなく、観察しただけらしいです」

 

「なんだよ・・・・・・それ? 連盟はマジメに研究しているのに・・・・・・・・・・」

 

 溜息を吐いて項垂れる二人を見比べて、巳堂は頭を掻いた。

 つまりは、封印が解除されたのは今日が始めてとなる。

 それでも、誠の封印には巳堂も不思議だと思った。一年間気付かなかった事は仕方が無いとしても、真神京香ともあろう魔術師が、なぜ封印なのか?

 たしかに、マジョ子の言う通りに出鱈目で過剰に封印しているが、人間としての活動は出来ているこの――――サジ加減が以上と言えた。

 廃人擦れ擦れに施した封印術の手腕を見るだけでも、凄まじい。大退魔師の噂は戦闘機関が存在する聖堂に響きわたり、真神京香は聖堂内でも、「偽神(ぎしん)殺しの女王」と呼ばれている。

 その彼女が封印するもの。実の息子を、廃人一歩手前まで封印する理由が解らない。それほどの実力があれば、悪魔程度払えば良い。何故、それをしなかった? 否、出来なかった?

 疑問符しか浮かばなくなり始め、頭を振って気分を変える。どうせ、憶測の域も出ない全てが仮説。ならば今度会ったら、直接聞けばいいと結論し、人類の命題に挑むようなマジョ子の苦悶の顔を見窺った。

 

「まぁーしゃーない。何でこんな封印をしたのかも、本人に聞けばいい。確か、そろそろ仁さんの命日だろ?」

 

 何を言っているのかとマジョ子は眉を寄せたが、「どうしてそれを?」と、疑問符を漏らす美殊に、巳堂は悪戯好きする笑みを作った。

 

「初めてこの街に来た時、世話になったんだ」

 

 二人は目を丸くするのを尻目に、巳堂は続ける。

 

「仁さんの命日は二〇日。日曜にはもう帰っているだろう。その時に封印の理由を聞けば良いだろうし、オレ達はその前に、「鬼門」から出た奴の処分をする。それで万事、解決だ」

 

 おどけながらも、「それで良いな?」と、真剣の空気を醸し出した巳堂に、二人は首肯するのを見て、「では、解散しますか?出来れば、明日あたりにマコっちゃんを連れてきてくれよ?」また、コロコロと雰囲気を変えた巳堂は席を立つ。

マジョ子もそれの後に続いて真神家を後にし、美殊は盛大な溜息を二階に向けて思いっきり、吐いた。

世話の焼ける幼馴染みだと覚悟していたが、これほどだとは思っていなかったことを、実に表す溜息だった。

 

 

 

 腹を突き破る異物。突き抜けた背中。引き抜かれたときの虚無感と脱力感。膝が笑って、その場で倒れこみ、吐いた血の上に額を打ち付けた。視界は真っ赤で、腹の個所が燃えるような激痛。身悶えすら、苦悶すらも責め苦だ。だが、それでも内側に宿る意思は立てと叫んでいる。「こいつ等はヤバイ、妹が危ない、立て、這ってでも!」そう叫び、己を叱咤する。しかし、もうそのときには背中からさらなる異物がするりと、進入して今度こそ血の上に胸を付け、這いつくばった。

そして、何時も夢見る風景が広がる。

目は車両の景色を写さない。写すのは真っ暗な世界に放り込まれ、境目のようにそびえている鉄格子と鎖。まるで牢獄のその場所は、一番太い鎖など誠の太ももよりも二周りはある。だが、何時も見る夢との差異に首を傾げた。

あれ? おかしい? 何時もなら、この太い鎖の群れをおれは遠くで眺めていたのに。

 この夢はいつも円を描く鉄格子と、束縛する鎖が遠くで群がっていた。だれもいない一人ぼっちで鎖と鉄格子を眺めるだけの夢。だが、今回だけは登場人物がいる。

それは誠自身。それも腹を貫かれ、胴体が何の揶揄でもなく別れていた。何時も、外で眺めている定置の場所で。

 

「出せ!」

 

 叫んだ。肺に溜まった空気の全てを吐いて。

 

「こいつを解け。行かなきゃ、死ぬ! だから、ここから出してくれ!」

 

 絶叫は木霊し、空虚に響く。風も無く、音は鎖の音色と己のみ。

 境目のようにそびえ立っている鉄格子の向こうで、自分自身が血を流している。行って、手当てをしなければ・・・・・・うん? 自分自身を? 自分はここにいるのに? でも助けなければ!

 狂った思考で、痛いほどの静謐に恐怖する。五年間、見続けた夢でも、鉄格子の向こう側では自分自身が死に掛けている。誰も救ってくれない悪夢に、歯軋りして鉄格子を穿つように睨んだ。瞬間、胸に狂暴な鬼火が荒れ狂い、何もかもに怒りを覚える。

 己を束縛し、封じ、押さえ込み、抑圧する象徴を全力で叩きのめし、牢獄は蹴り破る。

 弾丸のように、今まで強固な鎖と牢獄を蹴り破り、鎖と牢獄を木っ端に叩きのめし、死に掛けている己に手を伸ばした。しかし、その手は見慣れた己の手ではない。まるで引き裂き、砕くためにあるかのような、黒光りした甲殻に覆われていた。己の手を見て、何故か納得できた。

あの鎖と鉄格子の存在がすとんと、腑に落ちる。

 悪魔の自分を封じる鉄鎖であると。

 

 

 

 四月一七日、一時二分。

 

 ぼやけた目を開いた瞬間に、網膜に映る情報は脳内へと身震いするほどの速度で、誠は一気に覚醒した。

 車両の常軌を脱した戦いは身体が覚えており、頭の片隅で映像が再生されている。だが、それよりも己の変化に戸惑いつつ、天井を見上げていた。

己の覚醒に目を擦り、上体を起こして辺りを見渡す。蒲団の上で首を廻らせて、辺りを何度も見渡す。

 戸口の左に年季の入った木の本棚。教科書と辞書。そして漫画本。掛けられている学生服の名札から、窓際にある机の傷の一つ一つも、真夜中に関わらずに良く見えた。

 そして、天井に張ってある六芒星の札、五芒星の札を何気なく見上げるだけで、札の意味を瞬時に理解出来た。

先ほどまで封じられていた誠の魂が、憎々しく歯軋りをする

 監視、病室、結界、スター・オブ・ダビデ、キングソロモン。頭に浮かんだ「もの」を言葉に変換した。そして頭の中で氷解する。ここは病室で監視された封印の場。

居心地が悪く、正視するだけで胸がムカムカするため、目をそらして立ち上がる。蒲団から出ると、全裸だったのでタンスから衣服を取り出して着込む。

トレーニング用の上下黒のジャージに白のシャツ姿で、誠は窓際まで進んで窓を開け、夜空を見上げた。

 

「ああ――――」

 

 溜息が零れる。月光に青く染められた夜空の大気。青い闇に染められ、見慣れたはずの住宅街が静謐の美を見せている。

月を見上げると、熟し切った完璧な満月が誠を照らしていた。

 魂と身体が震え、心が満たされる。振動がそのまま内側に至り、全身を打ちのめす。

落雷に打たれたように動けなくなり、食い入るように満月を見上げる。こんなに綺麗な満月を前にして眠るなんて、とてもこの特別な夜に失礼だと思えた。

 誠は窓際に足を掛け、徐に飛び出す。

車両を脱出した際、自分の身体は美殊を抱えようと屋根から、屋根へと飛び跳ねながらの移動を可能とし、己一人分の体重など羽毛に等しかった。

叫びだしたい気分だった。全身の細胞は機敏に働き、全身神経は機密に状況を把握し、肉体は高揚感に満ち溢れ、真の意味で思い通りに動く。

 そのまま素足でフワリと着地した。二階から、音も無く着地した誠は心底に笑い出したかった。その歓喜と共に全身をバネにして跳躍する。

 最初のジャンプで向かいの家の電柱天辺に足を付け、そのまま二度目のジャンプ。隣家の塀に着地すると、寝ぼけ眼の飼い犬が豆鉄砲でも食らったように誠を見上げるので、一つ挨拶を交わしてから再度飛ぶ。飛び上がった後、悲鳴のように飼い犬は吼えていた。

 全身に掛かるGと、空気を突き破り、頂点に達したときに始まる浮遊感。そのまま重力に従って落ちていき、全ての間接駆動域を着地時の緩和剤にし、屋根や天井を伝い、電柱を飛び石のように疾駆する。

風を切るではなく、風を穿ち裂く。モット高く、モット速くという肉体の欲求に誠は貪欲に従った。

 そして、一つの終着点。一つの挑戦として細い視界の中である一点を見詰めた。そびえ立つものを「超えたい」と、血が叫んでいる。

 目指す場所を、この街で月に一番近い高層マンション陽神(ひかみ)の屋上に狙いを定めた。

ビルへと風を切って近付き、舞うよう飛翔して四階に位置する縁を蹴り上げる。Gを突き破り、上昇が終える前に今度は、ロッククライマーのように壁の隙間に爪を立て、片手一本と指三本あれば、己の身体を跳ね上げることも出来てしまう。

 それを六度か七度繰り返して、とうとう屋上へと到着する。

勢いがあり過ぎて、屋上から九メートルの高さから降りたのだから、舞い降りたと言うに相応しい。火を噴きそうなほど荒い呼吸で両膝に手を置き、肩で呼吸する。

嚥下しそうなほど熱い呼吸は乱れていたが、それは笑い出したい衝動との板挟みで生まれる苦しみ。今の誠はそれすら、離したくないために呼吸をそのままにする。

心の底から喜びを感じていた。屋上の突風で汗を吸った髪がなびき、全身を大きく揺るほどの冷たい突風を、全身で受け止める。火照った身体を冷やすのは丁度いい。呼吸かだんだんと落ち着いていき、顔を上げて月を見上げた。

 満月にすっぽりと呑込まれたような、包み込んで祝福しているかのような感覚に心は躍る。

 

(何時の頃だろう? おれは綺麗なものを見ても、綺麗だと感じなかったのは? 何時の間にか視界が霧の中になり、目を凝らしても見落としていたのはどうしてだ? 見上げれば、今の満月だってこれから昇る太陽だって、美しいと感じられたのに。今まで、こんな綺麗なものを普通だと、どうして決め付けていたんだ? でも、今は違う。綺麗だ。心の底から綺麗だって言える。五年前から、おれはまるで雁字搦めの鎖に囚われていたんだ。それを、ようやっと一本分解放された。今日、ようやっとオレは一二歳の魂を取り戻した。そして、日常にあること全てが特別で、綺麗なのだとようやくおれは織った。おれの周りは何て綺麗なものが溢れているのだろう。全てが特別だから、普通に見えていただけだと、ようやっと気付けるなんて。おれはなんて不幸で幸運なんだ!)

 

 そんな感動の中。

 

「そうなの? よかったね」と、誠の背後で極上に優しいアルトの声が掛かった。

 

 全身にまた違った汗が流れ始めてから、ようやっと気付いた。

 先ほどの感想を全部、口走っていたことに。

 

 

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